東日本大震災の影響で、東日本全体が節電対策をしている。
今は季節が良いので、本格的には夏をどう乗り切るか、にかかっている。
不夜城のごとく眠らぬ都市のTOKYOだが、この節電待ったなしの状況で、街灯、ネオン、自販機の
照明、駅の構内の電気、エアコンの自粛などあらゆるところで、節電対策をしている。
しかし、このような不夜城の都市になると基本的なところで4000万キロワットアワーの半分は
節電のしようがない構造にもなっている感じもする。
ところで先日出張で大阪に行ってきた。大阪でも節電の呼び掛けはされているようだ。
しかし、明るい。
明るすぎるという感覚を持ってしまった。
あれも、これも、あそこも消せば良いのにという感覚になっている自身に気づく。
普段は何も気にしていなかったことが、こんな大災害をきっかけとして、大きな気づきと
なって再認識させられる。
こんなことを考えていた時、むかし谷崎の『陰翳礼讃』を読んだことを思い出した。
薄暗がりのなかに、映えるものがある、という感覚だ。
西洋のものが入ってきて、影の部分がどんどんと光に変っていくことを憂えているのである。
それと同時に陰陽道のことについても頭をよぎった。
光の部分と影の部分の調和が大事であるということを言っている。
日本は、明治維新以降「脱亜入欧」ということで西洋かぶれしてきた。
日本の「陽としての影」の部分の礼賛を、影を陽に転じさせて礼賛する文化に染まっていった。
つまり「明るいことはいいことだ。暗いことは悪いことだ。」というパラダイム転換を
起こしたのである。
日本のあいまいさを良しとしたことを善悪、是非論という二元論で語ることが正しいという
考え方になってしまったといってよい。
会社の中でもあいまいにしていることが尊ばれない。
何でも白黒つけて、早く、速く意思決定することが良いという文化になっている。
科学技術、西洋論理崇拝主義の中では、それが是である。
今回の福島原発も政府、東電の対応はリーダーシップ、意思決定の遅さがよくあげられている。
もともとそんなことを尊ばなかった日本的な精神のところに、文明化は容赦はしてくれない。
何が真か?と問われれば、世論で言われていることが是なのかもしれない。
しかし、もう少し広くみて、何が善か?と問えば、
この文明化と日本文化との融合なのか、捩じれなのかというところまでくる。
それをもう一段深く考えれば、それは美しいか?と問うことになる。
そうすると、日本が縄文時代から連綿と続いてきた美意識や宗教観と一神教との戦いにも
なる。
今回の人災は、その一神教の精神のもとに受け入れてきた、民主主義、資本主義、科学技術という
一神教の子供たちが幅を利かしたなかでの出来事だとも言える。
日本にはキリスト教を中心とした一神教は根付いていないと言われている。信者も1%もないと言われている。しかし、先ほどのキリスト教から生み出された主義は見事なまでに根付いた。
それが経済大国と言われることと、同義語とまでは言わないまでも、その精神は見事なまでに
我々の中に入り込んでしまった。
我々は物質的な豊富さを世界中でもトップクラスに享受している。
それは素晴らしいことだろう。
しかし、その大本の親のことはあまり知らない。一神教の本当の根っこのことを。
この根っこと、先ほどの「美しいとは?」としっかりと語りあわないといけない、
ところに来ているのである。
陰翳礼讃を称賛し、その影の良さを再認識することは良いことであるが、なぜそれが
我々日本人には良いように感じるのかを、その根っこに向かって考え議論しても良い時期
にきたといえる。
それが「文明の転換期」という時期に起こすべき行為であろう。