私の選ぶアナログレコード珠玉の10枚2026

音の向こうに、人間と時間を聴く

「音の良いレコードを10枚」と言われれば、選ぶことはできない。録音が良いというだけなら、100枚でも挙げられるからだ。

では、なぜこの10枚なのか。

今回、実際に一枚ずつレコードを取り出し、針を落としながら選んでいくうちに、私自身にも基準が見えてきた。それは「高音質」でも「名演」でも「希少盤」でもない。演奏した人間の渾身、そこに居合わせた人々の気配、その時代の空気、そして私自身がそのレコードを聴いてきた時間までが、音とともに立ち上がってくるかどうかである。

初期盤が多くなったのも結果である。オリジナルだから偉いのではない。しかし録音という出来事から、カッティング、プレスを経て現在の私まで続いている「時間」の距離が短い盤には、時として説明しにくい生々しさがある。一方で、日本盤でも、その出来事を十分に伝えてくれるものは迷わず選んだ。

つまりこれは、コレクターのための「稀少盤10選」でも、オーディオ評論としての「優秀録音10選」でもない。

2026年現在の私が、どうしても手元から外すことのできない10枚である。


1.Antonio Lysy at The Broad

Music from Argentina — Yarlung Records

最初の一枚は、やはりこれだった。

チェロの弓が弦を擦り、弦が振動し、それが楽器の胴へ入り、やがてホールの空気へ消えていく。その一連の出来事が分断されない。奏者、楽器、空間の間に、録音装置が存在しないように感じる瞬間がある。

2009年6月、Santa MonicaのThe Broad Stageで録音。Yarlung自身が、単一のAKG C-24ステレオマイク、ミキサーなし、可能な限り短い信号経路という録音思想を明らかにしている。まさに私がこの盤から感じる「何も挟まっていない」感覚と重なる。

奏者・楽器・空間の間に、何も挟まっていないような生々しさを持つ一枚。


2.Eagles

Hell Freezes Over

これは録音だけを評価して選んだのではない。

音楽には、自分の人生のある時期と切り離せなくなるものがある。曲が始まった瞬間、その頃の景色や空気、人間関係まで蘇る。

レコードというものは不思議である。同じ溝を針がなぞっているだけなのに、そこから再生されるのは音だけではない。自分自身の過去まで再生される。

この一枚を外してしまえば、私の「10枚」ではなくなってしまう。

音楽、ライブの場、そして私自身の記憶が重なって再生される一枚。


3.Brahms:ピアノ協奏曲第2番

Julius Katchen / János Ferencsik / London Symphony Orchestra
Decca SXL 2236

熱い演奏というと、音がこちらへ迫ってくる演奏を想像しがちである。

しかし、この盤は違う。

カッチェンのピアノもオーケストラも前へ飛び出してこない。むしろ深い奥行きの中に存在している。ところが、その空間の奥から、じわじわと演奏の熱がこちらへ伝わってくる。

私のPersona Bが一年半ほどを経てようやく本領を発揮し始め、この古いDeccaを満足して聴けるようになったことも、この一枚を改めて発見するきっかけになった。

所有盤は1960年前後のDecca Wide Band “Original Recording By” 世代。単なる後年の再発とは違う、初期Deccaステレオの空気を持っている。

熱が前へ飛び出すのではなく、奥行きのある空間の内部から伝わってくる一枚。


4.Carol Kidd

All My Tomorrows — Aloi AKH 005

声を「音」として聴くレコードはたくさんある。

しかし、この盤を聴いていると、いつの間にか声の向こうに一人の人間が現れる。

子音が立ち、母音へ移り、胸や喉の響きを伴いながら空気へほどけていく。そこには「ヴォーカルの定位」というオーディオ的な言葉では捉えきれない、人間の体温がある。

1985年のAloiオリジナル期の盤。

「声」を音像としてではなく、一人の人間として聴く一枚。


5.Konstanty Andrzej Kulka

Lalo:Symphonie Espagnole / Saint-Saëns:Introduction et Rondo Capriccioso
MUZA SX 0497

この一枚には、危うさがある。

クルカの弓が弦へ食い込む。時には、本当に弦が切れてしまうのではないかと思うほどである。それでも音楽は崩壊せず、その危うさそのものが演奏の熱になる。

私はこのヴァイオリンに、耳で聴いて「Guarneriのような」暗く厚い質感を感じた。

所有盤は約193.8g。初期プレスである可能性の高い重量盤で、後年の再発も所有しているが、私にはまったく別物に聴こえる。

ここでは初期盤であることが、単なる収集上の価値ではない。演奏が起きた瞬間の密度と結びついているように感じるのである。

渾身と危うさが、そのまま盤に刻まれている一枚。


6.Manitas de Plata

Philips 840.581 PY

スペインへ行った後、ギターのレコードが欲しくなり、新宿の中古レコード店で店員に相談した。薦められたのがこの盤だった。未使用品で、確か700円ほどだったと思う。

それが、長い付き合いになった。

超絶的なギターだけではない。歌があり、小さな聴衆がいる。奏者が聴衆を熱くし、その反応によって奏者がさらに燃える。

爪から弦へ。弦からギターの胴へ。そこから声へ、聴衆へ、そして再び奏者へ。

熱が循環している。

盤は約154.8g。Kulkaの193.8gとは大きく違う。重量盤だから良いのではないことを、この一枚は逆に教えてくれる。

演奏者と聴衆の間で、熱が循環している一枚。


7.Stravinsky:Le Sacre du Printemps

Colin Davis / Concertgebouw Orchestra
Philips X-7783

これは日本盤である。

原盤Philips 9500 323を探すこともできる。しかし私は、このX-7783を長く気に入って聴いてきた。

《春の祭典》では、一人の奏者の渾身とは違うものが起きる。個々の楽器がセクションになり、セクション同士が衝突しながら、やがてオーケストラ全体が一つの巨大な生き物のように動き始める。

ここにあるのは、KulkaともManitasとも違う集団の熱である。

初期盤への関心を持つ私が、それでも日本盤を10枚に入れた。その事実は、この10選の性格をよく示していると思う。

多数の人間が、一つの巨大な生命体になる瞬間を聴く一枚。


8.Tchaikovsky

1812 Overture / Capriccio Italien / Marche Slave
Kenneth Alwyn / London Symphony Orchestra
Decca SXL 2001

この盤には二つの意味がある。

まず《1812年》。作品そのものが歴史を背負っている。そしてSXL 2001というレコード自体も、DeccaステレオLPの黎明を象徴する存在である。

しかし私が好きなのは、《イタリア奇想曲》でもある。

私には、ここでチャイコフスキーが「騒いでいる」ように聴こえる。

内へ沈み込み、影を抱えることの多いチャイコフスキーが、この曲では外へ飛び出してしまう。その解放感を、この演奏は実によく表している。

しかも私の所有盤は、有数のコレクターから「あなたにはお世話になったから」と譲っていただいたもの。本当の初期盤だと聞いている。Wide Band、Grooved、“Original Recording By”。B面マトリクスは3E。

したがって、この一枚には作品の歴史、録音史、盤の歴史、そして人から人へ渡った歴史が重なっている。

歴史が刻まれた《1812年》と、チャイコフスキーが解き放たれる《イタリア奇想曲》。二つの熱が同居する一枚。


9.The Dave Brubeck Quartet

Hey, Brubeck! Take Five! — CBS/Sony SONP-50003

《Take Five》は、実に不思議な音楽である。

5拍子という構造だけを見れば、極めて知的である。ところが聴き続けていると、5拍子を頭で数える必要がなくなる。

身体が5拍子になってしまう。

Paul Desmondのアルトは涼しい。Dave Brubeckも過剰に感情を押し出さない。それなのに、その内部では熱が消えない。

Kulkaのような「弦が切れそうな熱」とは正反対である。

静かな熱である。

これも日本CBS/Sony盤。オリジナル盤であることを10枚の条件にはしていないことが、ここにも現れた。

知性によってつくられた時間が、四人の演奏によって身体の時間へ変わっていく一枚。


10.Bruckner:交響曲第8番

Hans Knappertsbusch / Munich Philharmonic Orchestra
Westminster

最後まで迷った。

山崎ハコを入れれば、私自身の人生と旅が重なる。Queenも、Charles Munchも外し難かった。

それでも最後に残ったのは、クナッパーツブッシュのブルックナー第8番だった。

理由は、ブルックナーという人間と作品との間にある、どうしても説明できない断絶である。

私はブルックナーを、どこか「生き方の下手な人」と感じている。

周囲の評価に揺れ、自作を改訂し、自信と不安の間を行き来する。世俗から超然として生きた人ではない。むしろ、人間としての自分をうまく完成させることのできなかった人、と言った方がよいかもしれない。

ところが、その人間が第8交響曲を書いた。

あれほど巨大な時間と空間を。

ここで「不器用だったから、この音楽が生まれた」と因果関係を作ってしまってはいけないと思う。

こんな人だった。
そして、こんな音楽が生まれた。
その間は、分からない。

私は、この分からなさを残しておきたい。

クナッパーツブッシュの演奏も、その亀裂をきれいに埋めない。ブルックナーを近代的に整理し、完璧な建築物として提示するより、巨大なものを巨大なまま動かしていく。

すると、あるところから「人間が音楽を演奏している」という感覚さえ薄れ、逆にこちらが巨大な時間の中へ置かれてしまう。

うまく生きられなかった一人の人間が、なぜこれほど人間を超えたものを創ることができたのか。その不可思議を聴く一枚。


10枚を選び終えて

並べてみて、初めて気づいた。

私は「完成された音」を選んでいたのではなかった。

Kulkaには、弦が切れそうになる瞬間がある。Manitasでは、奏者と聴衆の間で熱が往還する。Katchenでは、熱が奥行きの中から現れる。Carol Kiddでは、声の向こうから人間が現れる。Brubeckでは、数学的な時間が身体の時間へ変わる。そして最後のBrucknerでは、不器用な一人の人間から、その人間自身をはるかに超えたものが現れる。

共通しているのは、何かが「なる」瞬間なのかもしれない。

録音された完成品を鑑賞しているのではない。

人間が何かになろうとする時間を聴いている。

だから、初期盤にも惹かれるのだろう。古いからでも、高価だからでもない。録音された出来事から現在までの時間が、できるだけ切断されずに残っているように感じる盤があるからだ。

しかし、日本盤であっても、その時間が残っていれば選ぶ。

結局、この10枚を貫いた基準は、

音+演奏+場+歴史+盤+私自身の時間

だった。

そして、10枚目のブルックナーまで来て、もう一つ加わった。

「分からなさ」である。

人間は不完全である。迷う。間違える。他人の評価に揺れる。うまく生きられない。それでも、ときに自分自身を超えるものを生み出してしまう。

なぜなのか。

分からない。

しかし、その分からなさを克服せず、その前にしばらく留まってみる。私にとってレコードを聴くという行為は、いつの間にか、そういう時間になっていたのかもしれない。

私が選ぶアナログレコード10選 2026

これは「名盤10選」ということではない。

針を落とすと、そこにいた人間と、そこに流れていた時間が、もう一度動き始める10枚である。

そして、おそらく2027年に選べば、少し違う10枚になる。

それでいい。

変わらない「ベスト10」ではなく、2026年の自分がどこに立っているかを刻んだ10枚なのだから。今に残しておくためにここに記しておく。

実家のシステム

明けましておめでとうございます。

少しずつですが整理しつつ、音のほうも追求しています。f:id:Naotora1008:20260105100115j:image

まだまだこれからですが、年に4回程度の別荘気分で楽しくやってます。f:id:Naotora1008:20260105100429j:image
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私が好んで使うオーディオリプラスを、カートリッジのスペーサーに採用しました。

薄い透明な板を挟むだけですが、私的には驚きの改善効果をもたらしてくれます。

一歩ずつ進めてまいります。

本年も宜しくお願い致します。

不安とともに聴く――オーディオと「死への存在」 ハイデガーを読みつつ

 オーディオを長く続けていると、不思議な感覚に出会うことがあります。ある瞬間、「これは良い音だ」と心から感じる。ところが次の瞬間には、その充足感はすぐに崩れ、「いや、まだ何かが足りない」「もっと先にある音があるはずだ」という不安に揺さぶられるのです。喜びと同時に訪れるこの落ち着かなさこそ、私を今日までオーディオに駆り立て続けてきた根源的な力であるように思います。

この「不安」という経験を、私はハイデガーの哲学と重ねてみたいと考えています。ハイデガーは『存在と時間』において、「不安(Angst)」を人間存在の本質を開示する根源的な気分と呼びました。不安は、日常生活における安心を突き崩し、私たちを「自分自身」へと呼び戻す。そこには対象も理由もなく、ただ「世界そのもの」が揺らいで見える瞬間があります。まさにそれは、音楽を聴きながら突然訪れる「あれでいいのか」という感覚に似ています。

ハイデガーによれば、人間はつねに「頽落(Verfallen)」の中に生きています。頽落とは、世間に埋没し、安心のうちに自分を見失う日常的なあり方です。オーディオでいえば「まあこれで十分だ」と音に慣れ、安心してしまう状態でしょう。しかし不安は、その頽落を破壊します。「この音は本当に自分が求めているものなのか」と揺さぶられるとき、私はもはや世間の評価や一般的な基準に逃げ込むことができなくなる。そこでは、自分の耳と心が唯一の拠り所となるのです。

ハイデガーが特に重視したのは、不安が「死への存在(Sein zum Tode)」とつながっているという点でした。死は誰かに代わってもらうことができない、徹底的に個別的な出来事です。不安はその死を先取り的に意識させ、私たちを「自分は自分として生きるしかない」という地点に立たせる。オーディオの世界で不安が去らないのも、同じ構造を持っているのではないでしょうか。すなわち、「他者の評価ではなく、私自身がこの音をどう受け止めるのか」という問いに突き動かされ続けるのです。

この意味で、不安は決して否定的な感情ではありません。不安があるからこそ、私は音を聴き続ける。もし完全に満足してしまえば、そこで探究は止まってしまうでしょう。しかし実際には、無ノイズの理想を目指しても、決して完全には到達できない。ハイデガーが言うように、死を克服することはできないが、その限界に向かって生きることが本来的なあり方を開くのです。オーディオにおいても同じです。到達不可能であることを知りながら、それでも「無ノイズ」「純粋な沈黙」を志向し続ける。その営みそのものが、私を音の世界に生きさせているのです。

思えば、良い音を聴いた瞬間の充足感よりも、その後に残る不安の方が、私の中で強い痕跡を残してきました。「もっと深い沈黙があるのではないか」「まだ聴こえていない音があるのではないか」という問いが、次の一歩を生み出すのです。武満徹が「沈黙は音の不在ではなく、音を孕んでいる存在である」と言ったように、私にとっての不安もまた、次の音を孕む沈黙なのかもしれません。

不安こそが探究の原動力であり、私を「自分の耳」へと呼び戻す存在論的な契機なのです。ハイデガーは、不安によって私たちが「世人」から引き剥がされ、本来的に生きる可能性が開かれると述べました。私にとってのオーディオもまた、不安を通して「自分自身の耳で聴く」という本来的なあり方を教えてくれる場なのだと思います。言い換えれば、オーディオは私にとって「不安を生きること」そのもの。だからこそ私は、この終わることのない探究を続けているのでしょう。

p.s.ハイデガーは難解で、オーディオを哲学的に伴走させて読むから何とか読めています。

今の時代の言葉とその感覚

誰もが、言葉を持ちたがる。
そして、語りたがる。
自分の感じたことを、自分の思ったことを、
「正しいかは分からないけれど、自分らしく」
そう言いながら、
言葉を、まるで自撮りのように発信する時代。

だがそこには、
「誤るかもしれない」という沈黙が足りない。

言葉は、
誤りうるがゆえに慎ましく、
誤りうるがゆえに重くなる。
その重さを受け止めぬまま、
誤謬は思想化されず、ただ“消費”されてゆく。

一度「私は間違っていてもよい」と言ってしまえば、
その言葉は責任から自由になった気分だけを残し、
語る者を倫理から解放してしまう。

しかし、本当の語りとは、
誤りうることを知りながら、なお語ることだ。
「自分は正しい」と信じたいから語るのではなく、
「自分が誤るかもしれない」ことを引き受けながら、
それでも語ることをやめない構え。

語るとは、
自分を肯定することではなく、
誤謬に触れながら言葉に命を与えることである。

だから、膜のようにありたい。
外と内のあわいに立ち、
すべてのノイズを受け止めるのではなく、
語るに足るものだけを、
沈黙の中から通す構えとしたい。

誤謬を消費せずに、思想として燃やす。
その火に照らされながら、
私たちは、
もう一度、語り直すことができるのではないか。

「聴こえない音が、聴こえてくる」——予測する脳とオーディオ体験

 このところ和歌山のオーディオルームでじっくりと音と向き合う時間が取れました。
SOTAのプレーヤー、エミネントテクノロジーのリニアトラッキングアーム、そしてマーチンローガンのスピーカー。それぞれの機器と丹念に対話を重ねながら、鳴らし込みと調整を続けました。
音場の広がりや奥行き、天井の高さの気配までもが手に取るように再現されるその精緻さに、思わず息をのみました。
その体験を通じて、今あらためて思うのは、「私たちは音を耳で聴いているのではなく、脳で聴いているのではないか」ということです。

■ 脳は、音を“予測”している
最近読んだ、乾敏郎・門脇加江子『脳の本質――いかにしてヒトは知性を獲得するか』(中公新書)に強く引きつけられました。そこでは、知性とは「予測する脳」の働きそのものであり、脳は外界の変化を先回りして予測し、その予測に対して感覚入力がどれだけずれているか(予測誤差)を常に調整していると語られています。
これはオーディオの体験と見事に重なります。
高域、たとえば10kHz以上の帯域は、年齢とともに物理的に聴き取りづらくなっているはずです。それでも、情報量の豊かなシステムで音楽を聴いていると、「そこにあるべき音」がちゃんと「聴こえてくる」感覚があるのです。
それは、脳がかつての記憶や経験に基づいて音を先回りして予測し、「そこにあるはずの音場」を補完してくれているのだと感じます。

■ スピーカーによって「情報量」が違って聴こえる理由
スピーカーやシステムによって、音の「情報量」が違って感じられることがあります。倍音の密度、空間の彫りの深さ、静寂の透明度…。こうした違いを聴き取る能力もまた、耳の能力というより、脳の構築力の問題なのではないでしょうか。
精緻な再生環境は、脳が持つ予測モデルを豊かにし、過去の音楽体験や空間記憶を呼び起こしやすくしてくれる。それが、「情報量が多い」と感じる根本なのかもしれません。

■ 老いることは、聴こえなくなることではない
加齢によって可聴帯域は狭まりつつあるかもしれません。しかしその代わりに、脳はこれまで蓄えてきた経験によって、より高次の予測と補完を可能にしています。むしろ、年齢を重ねるとは「音をより深く聴けるようになること」でもあるのだと、自分の耳に問い直したくなります。

■ 音は、記憶とともに響く
和歌山のオーディオルームで過ごした数日間は、機器を整える時間であると同時に、自分の「脳の響き」を再確認する時間でもありました。
聴こえているのは、物理的な音だけではない。
そこには、記憶が、空間が、感情が、そして予測が、織り込まれています。
それが、音楽を聴くということの深さであり、オーディオの愉しさなのだと、あらためて感じた日々でした。

 

書斎の沈黙が、ふたたび語りはじめた ――LP12と2S-3003、音の再生(よみがえ)り

 私にとっての第一システムである、アナログプレーヤー「LINN LP12」と、ダイヤトーン2S-3003。
かつては中心にあったこの組み合わせが、いつの間にか、静かにその座を譲っていました。

寝室に据えたベリリウム振動板のパラダイムが、緻密で洗練された音場をつくり出し、それに呼応するようにシステムも調整を重ねてきました。そんな時の3日前、あらためてダイヤトーンに火を入れたとき、私ははっきりと感じたのです。音の鮮度が鈍っている。かつての、音が空気を裂くような緊張感が失われていたのです。

このままではいけない。私は即座に動きました。
和歌山から持ち帰っていたシルテックの銀線――亡き師匠が愛用していたものです。それを用いて、スピーカー内部の配線をすべて交換しました。f:id:Naotora1008:20250517213342j:image手間はかかりましたが、必要な時間でした。音を変えるとは、単に機材を変えることではなく、関係性を再構築することでもあるのです。

私のオーディオ観の核にあるのは、鮮度感です。
それゆえ、プリアンプは使わない。音の経路に余計な回路を介せば、その分、情報は失われていく。私は最小限の構成にこだわり、パワーアンプ側に3段階のアッテネータを取りつけるという方法をとっています。ダイヤトーンの高能率(93dB)が、この構成を可能にしてくれています。

一方、Audio Machina CRMは確かに優れたスピーカーでしたが、能率が85dBと低く、カートリッジで調整してもなお、少々無理を強いる構成になっていました。その点、パラダイムは92dBと扱いやすく、導入の決め手にもなったのです。

とはいえ、数値では語れない音があります。
そして今、こうして再構成されたダイヤトーンの音を前にして、私はあらためてそのことを実感しています。中域に緊張感が戻り、高域はすっと伸び、音像が空間に立ち上がる。ネットワークの再配線も、師匠が遺した手書きの回路図のおかげで、迷いなく進めることができました。図面の向こう側には、彼の耳と思想が確かに息づいていたように思います。

音は、単なる現象ではありません。
それは、知覚の入口であり、世界への問いかけでもある。
「音が良い」とはどういうことか。
それは、自分が何を「良い」と感じるかを通して、自分自身と向き合うことに他なりません。

再生とは、過去を繰り返すことではなく、
耳を澄ましなおすことによって、世界との関係を更新する営みです。

今後も音は変わっていくでしょう。だが、それを変化と呼ぶよりも、
“深化”と呼ぶほうが、私にはしっくりきます。

音の手前で立ち止まり、静かに耳を澄ます。
その時間を持ち続けることこそが、私にとってのオーディオであり、
ひいては、世界との正しい関係の持ち方なのだと感じています。

音を通して――和歌山の時間と思索を東京へ

長い連休を、和歌山で過ごしてきました。
かつて師と仰いだ方の遺品として譲り受けた機材と向き合い、時間をかけて一つひとつの音に耳を傾けるなかで、私は音の背後に広がる空間と、そこに宿る深い静けさに、再び心を打たれました。

その音は、リファレンスと呼ぶにふさわしいものでした。
ただ美しいのではない、ただ力強いのでもない。まるで、演奏会場の幅と奥行き、天井の高さまでもを可聴化するかのように、音と音のあいだに「場」が生まれるのです。そこに立つ自分の存在が、むしろ膜のように透け、音に透過される――そんな感覚でした。

今回、和歌山から東京へと持ち帰ったのは、単なる機材やソフトではありません。
MCカートリッジ、珠玉のレコード15枚ほど。中でも、Reference RecordingsやSheffield Labといったレーベルの盤は、まさに“録音”を超えた音の哲学を語ってくれるものでした。師匠のコレクションから譲り受けたレコードは2,000枚を超えますが、その中のスーパーアナログシリーズは、ほとんど新品同様で、存在感があります。その一部が、いま私の手元にあります。

そして何より――Paradigm PERSONA Bの可能性をさらに開こうとする今回の試みにおいて、注目すべきはケーブルです。f:id:Naotora1008:20250510105719j:image
従来使用していたJorma Primeのラインケーブル、スピーカーケーブルは、市販ケーブルの中では最高峰の一つといえるでしょう。ですが、和歌山で試した非売品のケーブルは、それを超えていた。はじめは半信半疑だった私も、音が放つ“密度のある沈黙”に触れて、考えを改めざるを得ませんでした。

このケーブルは、亡き師がある種の「音の核心」に到達するために用いていたもの。
ルテニウム仕上げのYラグによる端子処理は、かなりの熟練を要する作業であり、師からも「プロでなければ扱いきれない」と聞いていました。今回はその貴重な1セットを持ち帰り、自らのシステムに組み込みました。f:id:Naotora1008:20250510105733j:image

バイワイヤリングは私にとって初の試みでしたが、ジャンパーケーブルとの差異には驚きました。
低域が沈み込みながらも輪郭を持ち、倍音はやわらかく立ち上がりながら空間に消えていく。まるで、音が音としてだけではなく、“存在”として語りかけてくるのです。

哲学者スピノザは、「すべてのものは神の現れである」と言いました。
ならば音もまた、世界を映すひとつのかたち。音によって自分の存在の輪郭が見えてくる。私たちは音を聴いているようでいて、じつは音に聴かれているのかもしれません。

この体験を通じて、私はまた一歩、「私は膜である」という思索の地平に近づいた気がしています。
音を媒介にして、内と外、自己と世界、技術と思想のあわいに立ち上がる「響きの思想」――それを、これからも言葉と音の両方で探り続けていきたいと思います。