実家のシステム

明けましておめでとうございます。

少しずつですが整理しつつ、音のほうも追求しています。f:id:Naotora1008:20260105100115j:image

まだまだこれからですが、年に4回程度の別荘気分で楽しくやってます。f:id:Naotora1008:20260105100429j:image
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私が好んで使うオーディオリプラスを、カートリッジのスペーサーに採用しました。

薄い透明な板を挟むだけですが、私的には驚きの改善効果をもたらしてくれます。

一歩ずつ進めてまいります。

本年も宜しくお願い致します。

不安とともに聴く――オーディオと「死への存在」 ハイデガーを読みつつ

 オーディオを長く続けていると、不思議な感覚に出会うことがあります。ある瞬間、「これは良い音だ」と心から感じる。ところが次の瞬間には、その充足感はすぐに崩れ、「いや、まだ何かが足りない」「もっと先にある音があるはずだ」という不安に揺さぶられるのです。喜びと同時に訪れるこの落ち着かなさこそ、私を今日までオーディオに駆り立て続けてきた根源的な力であるように思います。

この「不安」という経験を、私はハイデガーの哲学と重ねてみたいと考えています。ハイデガーは『存在と時間』において、「不安(Angst)」を人間存在の本質を開示する根源的な気分と呼びました。不安は、日常生活における安心を突き崩し、私たちを「自分自身」へと呼び戻す。そこには対象も理由もなく、ただ「世界そのもの」が揺らいで見える瞬間があります。まさにそれは、音楽を聴きながら突然訪れる「あれでいいのか」という感覚に似ています。

ハイデガーによれば、人間はつねに「頽落(Verfallen)」の中に生きています。頽落とは、世間に埋没し、安心のうちに自分を見失う日常的なあり方です。オーディオでいえば「まあこれで十分だ」と音に慣れ、安心してしまう状態でしょう。しかし不安は、その頽落を破壊します。「この音は本当に自分が求めているものなのか」と揺さぶられるとき、私はもはや世間の評価や一般的な基準に逃げ込むことができなくなる。そこでは、自分の耳と心が唯一の拠り所となるのです。

ハイデガーが特に重視したのは、不安が「死への存在(Sein zum Tode)」とつながっているという点でした。死は誰かに代わってもらうことができない、徹底的に個別的な出来事です。不安はその死を先取り的に意識させ、私たちを「自分は自分として生きるしかない」という地点に立たせる。オーディオの世界で不安が去らないのも、同じ構造を持っているのではないでしょうか。すなわち、「他者の評価ではなく、私自身がこの音をどう受け止めるのか」という問いに突き動かされ続けるのです。

この意味で、不安は決して否定的な感情ではありません。不安があるからこそ、私は音を聴き続ける。もし完全に満足してしまえば、そこで探究は止まってしまうでしょう。しかし実際には、無ノイズの理想を目指しても、決して完全には到達できない。ハイデガーが言うように、死を克服することはできないが、その限界に向かって生きることが本来的なあり方を開くのです。オーディオにおいても同じです。到達不可能であることを知りながら、それでも「無ノイズ」「純粋な沈黙」を志向し続ける。その営みそのものが、私を音の世界に生きさせているのです。

思えば、良い音を聴いた瞬間の充足感よりも、その後に残る不安の方が、私の中で強い痕跡を残してきました。「もっと深い沈黙があるのではないか」「まだ聴こえていない音があるのではないか」という問いが、次の一歩を生み出すのです。武満徹が「沈黙は音の不在ではなく、音を孕んでいる存在である」と言ったように、私にとっての不安もまた、次の音を孕む沈黙なのかもしれません。

不安こそが探究の原動力であり、私を「自分の耳」へと呼び戻す存在論的な契機なのです。ハイデガーは、不安によって私たちが「世人」から引き剥がされ、本来的に生きる可能性が開かれると述べました。私にとってのオーディオもまた、不安を通して「自分自身の耳で聴く」という本来的なあり方を教えてくれる場なのだと思います。言い換えれば、オーディオは私にとって「不安を生きること」そのもの。だからこそ私は、この終わることのない探究を続けているのでしょう。

p.s.ハイデガーは難解で、オーディオを哲学的に伴走させて読むから何とか読めています。

今の時代の言葉とその感覚

誰もが、言葉を持ちたがる。
そして、語りたがる。
自分の感じたことを、自分の思ったことを、
「正しいかは分からないけれど、自分らしく」
そう言いながら、
言葉を、まるで自撮りのように発信する時代。

だがそこには、
「誤るかもしれない」という沈黙が足りない。

言葉は、
誤りうるがゆえに慎ましく、
誤りうるがゆえに重くなる。
その重さを受け止めぬまま、
誤謬は思想化されず、ただ“消費”されてゆく。

一度「私は間違っていてもよい」と言ってしまえば、
その言葉は責任から自由になった気分だけを残し、
語る者を倫理から解放してしまう。

しかし、本当の語りとは、
誤りうることを知りながら、なお語ることだ。
「自分は正しい」と信じたいから語るのではなく、
「自分が誤るかもしれない」ことを引き受けながら、
それでも語ることをやめない構え。

語るとは、
自分を肯定することではなく、
誤謬に触れながら言葉に命を与えることである。

だから、膜のようにありたい。
外と内のあわいに立ち、
すべてのノイズを受け止めるのではなく、
語るに足るものだけを、
沈黙の中から通す構えとしたい。

誤謬を消費せずに、思想として燃やす。
その火に照らされながら、
私たちは、
もう一度、語り直すことができるのではないか。

「聴こえない音が、聴こえてくる」——予測する脳とオーディオ体験

 このところ和歌山のオーディオルームでじっくりと音と向き合う時間が取れました。
SOTAのプレーヤー、エミネントテクノロジーのリニアトラッキングアーム、そしてマーチンローガンのスピーカー。それぞれの機器と丹念に対話を重ねながら、鳴らし込みと調整を続けました。
音場の広がりや奥行き、天井の高さの気配までもが手に取るように再現されるその精緻さに、思わず息をのみました。
その体験を通じて、今あらためて思うのは、「私たちは音を耳で聴いているのではなく、脳で聴いているのではないか」ということです。

■ 脳は、音を“予測”している
最近読んだ、乾敏郎・門脇加江子『脳の本質――いかにしてヒトは知性を獲得するか』(中公新書)に強く引きつけられました。そこでは、知性とは「予測する脳」の働きそのものであり、脳は外界の変化を先回りして予測し、その予測に対して感覚入力がどれだけずれているか(予測誤差)を常に調整していると語られています。
これはオーディオの体験と見事に重なります。
高域、たとえば10kHz以上の帯域は、年齢とともに物理的に聴き取りづらくなっているはずです。それでも、情報量の豊かなシステムで音楽を聴いていると、「そこにあるべき音」がちゃんと「聴こえてくる」感覚があるのです。
それは、脳がかつての記憶や経験に基づいて音を先回りして予測し、「そこにあるはずの音場」を補完してくれているのだと感じます。

■ スピーカーによって「情報量」が違って聴こえる理由
スピーカーやシステムによって、音の「情報量」が違って感じられることがあります。倍音の密度、空間の彫りの深さ、静寂の透明度…。こうした違いを聴き取る能力もまた、耳の能力というより、脳の構築力の問題なのではないでしょうか。
精緻な再生環境は、脳が持つ予測モデルを豊かにし、過去の音楽体験や空間記憶を呼び起こしやすくしてくれる。それが、「情報量が多い」と感じる根本なのかもしれません。

■ 老いることは、聴こえなくなることではない
加齢によって可聴帯域は狭まりつつあるかもしれません。しかしその代わりに、脳はこれまで蓄えてきた経験によって、より高次の予測と補完を可能にしています。むしろ、年齢を重ねるとは「音をより深く聴けるようになること」でもあるのだと、自分の耳に問い直したくなります。

■ 音は、記憶とともに響く
和歌山のオーディオルームで過ごした数日間は、機器を整える時間であると同時に、自分の「脳の響き」を再確認する時間でもありました。
聴こえているのは、物理的な音だけではない。
そこには、記憶が、空間が、感情が、そして予測が、織り込まれています。
それが、音楽を聴くということの深さであり、オーディオの愉しさなのだと、あらためて感じた日々でした。

 

書斎の沈黙が、ふたたび語りはじめた ――LP12と2S-3003、音の再生(よみがえ)り

 私にとっての第一システムである、アナログプレーヤー「LINN LP12」と、ダイヤトーン2S-3003。
かつては中心にあったこの組み合わせが、いつの間にか、静かにその座を譲っていました。

寝室に据えたベリリウム振動板のパラダイムが、緻密で洗練された音場をつくり出し、それに呼応するようにシステムも調整を重ねてきました。そんな時の3日前、あらためてダイヤトーンに火を入れたとき、私ははっきりと感じたのです。音の鮮度が鈍っている。かつての、音が空気を裂くような緊張感が失われていたのです。

このままではいけない。私は即座に動きました。
和歌山から持ち帰っていたシルテックの銀線――亡き師匠が愛用していたものです。それを用いて、スピーカー内部の配線をすべて交換しました。f:id:Naotora1008:20250517213342j:image手間はかかりましたが、必要な時間でした。音を変えるとは、単に機材を変えることではなく、関係性を再構築することでもあるのです。

私のオーディオ観の核にあるのは、鮮度感です。
それゆえ、プリアンプは使わない。音の経路に余計な回路を介せば、その分、情報は失われていく。私は最小限の構成にこだわり、パワーアンプ側に3段階のアッテネータを取りつけるという方法をとっています。ダイヤトーンの高能率(93dB)が、この構成を可能にしてくれています。

一方、Audio Machina CRMは確かに優れたスピーカーでしたが、能率が85dBと低く、カートリッジで調整してもなお、少々無理を強いる構成になっていました。その点、パラダイムは92dBと扱いやすく、導入の決め手にもなったのです。

とはいえ、数値では語れない音があります。
そして今、こうして再構成されたダイヤトーンの音を前にして、私はあらためてそのことを実感しています。中域に緊張感が戻り、高域はすっと伸び、音像が空間に立ち上がる。ネットワークの再配線も、師匠が遺した手書きの回路図のおかげで、迷いなく進めることができました。図面の向こう側には、彼の耳と思想が確かに息づいていたように思います。

音は、単なる現象ではありません。
それは、知覚の入口であり、世界への問いかけでもある。
「音が良い」とはどういうことか。
それは、自分が何を「良い」と感じるかを通して、自分自身と向き合うことに他なりません。

再生とは、過去を繰り返すことではなく、
耳を澄ましなおすことによって、世界との関係を更新する営みです。

今後も音は変わっていくでしょう。だが、それを変化と呼ぶよりも、
“深化”と呼ぶほうが、私にはしっくりきます。

音の手前で立ち止まり、静かに耳を澄ます。
その時間を持ち続けることこそが、私にとってのオーディオであり、
ひいては、世界との正しい関係の持ち方なのだと感じています。

音を通して――和歌山の時間と思索を東京へ

長い連休を、和歌山で過ごしてきました。
かつて師と仰いだ方の遺品として譲り受けた機材と向き合い、時間をかけて一つひとつの音に耳を傾けるなかで、私は音の背後に広がる空間と、そこに宿る深い静けさに、再び心を打たれました。

その音は、リファレンスと呼ぶにふさわしいものでした。
ただ美しいのではない、ただ力強いのでもない。まるで、演奏会場の幅と奥行き、天井の高さまでもを可聴化するかのように、音と音のあいだに「場」が生まれるのです。そこに立つ自分の存在が、むしろ膜のように透け、音に透過される――そんな感覚でした。

今回、和歌山から東京へと持ち帰ったのは、単なる機材やソフトではありません。
MCカートリッジ、珠玉のレコード15枚ほど。中でも、Reference RecordingsやSheffield Labといったレーベルの盤は、まさに“録音”を超えた音の哲学を語ってくれるものでした。師匠のコレクションから譲り受けたレコードは2,000枚を超えますが、その中のスーパーアナログシリーズは、ほとんど新品同様で、存在感があります。その一部が、いま私の手元にあります。

そして何より――Paradigm PERSONA Bの可能性をさらに開こうとする今回の試みにおいて、注目すべきはケーブルです。f:id:Naotora1008:20250510105719j:image
従来使用していたJorma Primeのラインケーブル、スピーカーケーブルは、市販ケーブルの中では最高峰の一つといえるでしょう。ですが、和歌山で試した非売品のケーブルは、それを超えていた。はじめは半信半疑だった私も、音が放つ“密度のある沈黙”に触れて、考えを改めざるを得ませんでした。

このケーブルは、亡き師がある種の「音の核心」に到達するために用いていたもの。
ルテニウム仕上げのYラグによる端子処理は、かなりの熟練を要する作業であり、師からも「プロでなければ扱いきれない」と聞いていました。今回はその貴重な1セットを持ち帰り、自らのシステムに組み込みました。f:id:Naotora1008:20250510105733j:image

バイワイヤリングは私にとって初の試みでしたが、ジャンパーケーブルとの差異には驚きました。
低域が沈み込みながらも輪郭を持ち、倍音はやわらかく立ち上がりながら空間に消えていく。まるで、音が音としてだけではなく、“存在”として語りかけてくるのです。

哲学者スピノザは、「すべてのものは神の現れである」と言いました。
ならば音もまた、世界を映すひとつのかたち。音によって自分の存在の輪郭が見えてくる。私たちは音を聴いているようでいて、じつは音に聴かれているのかもしれません。

この体験を通じて、私はまた一歩、「私は膜である」という思索の地平に近づいた気がしています。
音を媒介にして、内と外、自己と世界、技術と思想のあわいに立ち上がる「響きの思想」――それを、これからも言葉と音の両方で探り続けていきたいと思います。

遺された遺品 師匠の音

この連休は、和歌山で静かに過ごしました。
時間に追われない数日間。ようやくゆっくりと腰を据えて、愛機たちと向き合う時間を取ることができました。

今回は、マーチンローガンを何十時間も鳴らし込みました。f:id:Naotora1008:20250509210420j:imageSOTAのアナログプレーヤーに、エミネントテクノロジーのリニアトラッキングアームを装着。ケーブル類の選定や微調整も丁寧に行い、ようやく「音が応えてくれる」瞬間に立ち会えた気がしています。

このスピーカーや機材の多くは、私にとって師匠とも呼べる方の遺品です。生前、その方は「オリジナルのまま残っているものは、もう何一つない」と話していました。スピーカー背面のボックス然り、SOTAの電源然り、アームの配線然り。いずれも、試行錯誤を重ねながら生まれ変わってきた機器たちです。

演奏空間の幅と奥行き、そして天井の高さが織りなす音の立体感には、何度も息を呑みました。和歌山のオーディオルームは約40畳、天井高3.6メートル。東京とは比べものにならない、この恵まれた空間の力も大きいのでしょう。

しかし、それだけでは語り尽くせません。ここまで「鳴ってくれた」ことは、今まで一度もありませんでした。まだまだ手を入れる余地はあると思いますが、今、ひとつの「到達点」に立っているという手応えがあります。

この音、この空気、この耳の記憶を、東京に持ち帰りたい。
そんな想いを胸に、また次の一歩を模索していきたいと思います。