縄魂弥才を超えた縄魂弥魂(じょうこんやこん)というコンセプト

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 この2週間ほどで読んだ本についての感想です。

 松岡正剛さんの『日本力』を読んで、我々は日本人として分母を多くしないといけないと
 感じています。

  つまり、「伝統が廃れたのではない。むしろ伝統は保存されるべき文化財のほうに
       追いやられ、知覚身体からほとばしるような伝統的前衛力と前衛的伝統力
       の両方が、薄れていってしまったのだ。」
  と語っています。

  私も全く同じように感じていましたので、これを読んでヘーゲルニーチェを思い出し、

 山折哲雄さんも引用していますフランシス・フクヤマの『歴史の終わり』を思い出しました。

  プラトンの『国家』にも出てくるテューモス、つまり気概です。

 理性と欲望は、ますます人間をその方向にアクセレイトしているように感じます。

  そこにブレーキをかけ、人間として利他の精神を持つべきだという方向に持っていこうと
 ベクトルを変えられる人間のことを言っているのだと思うのです。

  ジャック・アタリは、理性と欲望が行くところまでいかないと、その利他に到達しないと
 いう言い方を『21世紀の歴史』等で言っていますが、
  それでは、核を使って人類が殆ど死滅しないと気付かないことになります。

  そんな殺伐とした文脈が飛び交うグローバルではありますが、日本として
 この時代に何ができるのでしょうか。

  それで歴史を紐解こうと山折哲雄さんの『日本文化とは何か パスス・ヤポニカの可能性』を
 読みました。それから梅原猛さんとの対談も読みました。

 和魂洋才や和魂漢才という概念は、色んなところで聞きます。

 しかしタイトルの縄魂弥魂という概念には、ハッとさせられましたが、

 良く考えるととてもしっくりとくる概念です。


  梅原猛さんが山折哲雄さんとの対談『神仏のかたち』の中から出てきた言葉です。

 山の神も農耕の神も日本では客神であり、田植えが始まると田の神になり、終わると山の神にもどると
 いう同じ神だというのです。

  それではもしかすると、それは多神教のように見えて、一神教ではないか、という感覚も
生まれてきそうですが、
  しかし、

  ヤハウェの神とは全く違った神の姿だと感じます。

  一神教は、旧約聖書につきるといってよいほど、その後の文脈を創っていると感じます。

  長谷川三千子さんの『バベルの謎』を読んでよけいその思いは強くなりました。

  アメリカのハリウッドも新約ではなく、旧約聖書が映画の軸となっていることからも
  納得できます。

  そんな砂漠の風土から生まれた宗教ではなく、日本的なものを感じたくて読んだのです。

  それと時を同じくして、これは割合良く聴いている
  二人のシンガーソング・ライターの
 
  山崎ハコの『幻想旅行Ⅱ』と
  谷山浩子の『ねこの森には帰れない

  が妙にタイトルのコンセプトとマッチングしました。

  谷山浩子さんを聴くと、宮沢賢治が頭にでてきます。
  それは縄文文化を感じさせるからでしょうか。

   アイヌのことも谷山浩子さんは、とても自他等値として感じます。

  いっぽうの山崎ハコさんを聴くと、神仏習合を感じるのです。

   この二人がとても好きで良く聴くのです。

  それがこの縄魂弥魂というコンセプトで納得感と二人のシンガーが私の中で繋がったような
  感覚が得られました。

   このように色んなところから引きまわしていますが、それがこのような新たなコンセプトの
  発信があることで、しっくりと私の心に収まった感がしたのです。

   音楽と読書は私の中にいつも映像として浮かび上がらしてくれる
   とても大切なものなのです。

   改めて今回の2週間の読書でそう感じました。

さあ、またこれからの2週間で何を読みましょうか。

   積読の本が何十冊か待ってくれているのですが…(笑)