絶対絶命の時や、死を覚悟した時、ハンチントンの言う8大文明の一つの日本文明と一致する日本人の行動パターンというのがあるのだろうか。
あのタイタニックの悲劇で日本人は生き残ったそうだが。
あの時のまずの基準は、女、子供を少ないボートに乗せて助けるという選択されたというのは、映画でもよくご存知だろう。その後助かりたいという醜い争いがくり広げられたり、また演奏者や貴族の階層の高い方々の中にはその船とともに沈むと選択をしたのもご案内のとおりである。
あれが全員日本人だったらどのような行動パターンがうまれたであろうか。全く同じような行動をろうかしただろうか。
家族全員で死を選ぶという光景がみられたのではないか。
また1972年のアンデス山中での飛行機事故で奇跡的に助かった何人かがいた。その時の生き延びる方法の最後の選択は事故死した他の人の肉を食べるというつことだった。その行為がかなり問題になった。裁判にもなったが生き延びたメンバーは無罪という判決であった。その後生き延びた方々の心持はどのようなものだったのであろうか。
その同じ状況において、日本人であったらどのような行動を起しただろうか。
食べずに死を選んだとも考えられる。
アングロサクソンを中心とする欧米文明の根本は、旧約聖書の「ノアの箱舟」に由来すると山折哲夫さんの説だ。そこにはノア一族という選民思想が、今尚、脈々とその精神が受け継がれているという。
また阪神大震災の時のようなあのような状況では、コンビニのような店では海外では強奪など必ず起こる行為だというが、日本ではあのような状況でレジに並んでいたという。
以上のような状況時に、行動様式が文明により、あるパターンをとるという。それが文明という人括りの集団の定義的なものの一つであるのだろう。
文明を定義する上で一番重要なのが、宗教だとハンチントン等が言っている。
日本のように国と民族と文明が一致している稀有な存在で、8大文明の一つとして捉えられている国であるのに、国教はないのは信仰の自由から当然ではあるが、八百万の神の国で、それぞれが、まあ勝手ばらばらの宗教観なのに、覚悟の時は一致行動するとはどういうことだろうか。
やはり、12000年前からの縄文文化の血を受け継いでいるという梅沢猛さんらの主張するのがいちばんしっくりくるようだ。民族による血の入れ替えがなかったということか。
一神教の集中システム、多神教の分散型と捉えると、これからの多様な社会には分散型への転換が求められると、考えられる。日本がこのような社会に対してどのようなプレゼンスを示すのか、それを踏まえ、我々はどのような行為をしたら良いのか、しっかりと考える時にきている。