もうお亡くなりになったが、ルネ・デカルトの『方法序説』訳者として有名な元京都大学教授の
野田又夫さんが『デカルト』(岩波新書)を書かれた中に、
『方法序説』のことを「・・・・ 全体として透明水のごとき文章であり、けばけばしい
修飾などは一つもなく、くりかえしもなく、淡々たる筆致で自己を語り方法を語り
哲学を語っています。・・・・・・・・ところで、大多数の方は一読して、明晰だがごく当た
り前ののことを書いてあるだけではないか、との印象を受けられたのではないかと
思われる。デカルトの時代にあたらしかったことも我々にはもう新しくなくなっている
のだと感ぜられる。私も若い時そういう経験をしました。しかしその後いろんな問題を
心に置くようになってからゆっくり読み直したときには全く別の感じをもったものであ
ります。デカルトの言うところを一つ一つ押さえようととし、時に異を立てようとするが、
なかなか歯が立たぬ。厚いガラスの上をすべってゆくような感じで何とももどかしい。
こういうことをくりかえしているうちにだんだん分かってきたことは、デカルトの淡々
たる一句一句が実に強烈な知的作業の末に達せられた結論だったということであります。
・・・・・。
私はこの一説がとてもしっくりくるものでしたし、オーディオでの私の取り組み方にぴったり
くるものでした。つまり、・・・・・
全体として透明水のごとき音空間であり、けばけばしい修飾など一つもなく、淡々
たる流れでレコードの溝を刻み続けます。・・・・それは大多数の方は、一聴して、
明晰だがごく当たり前の単純なラジオから流れている音ではないか、との印象を
受けると思われる。アナログ全盛の時代では新しかったこともCDやSACDのデジタル
時代の人々にはもう古く感じられる。私もデジタルがアナログを量的に超えだした
ころにはそのような同様の経験もしました。しかしアナログを聴き続けている中で、
ゆっくりした思考を重ねたときに、やはりアナログには何か別の感じがあると思う
ようになった。アナログに対する分析的な異を立てようとするが、なかなか歯が立
たぬ。試行錯誤しているうちにだんだん分かってきたことは、アナログの淡々たる
一音一音が実に強烈な密度感を伴った音圧の背景には知的作業の末に達せられた
結果だったということであります。
・・・・・・。
デカルトで攻めましたが、なにか西田幾多郎の純粋経験のような感じになってしまいました。
「絶対矛盾的自己同一」
なのでしょうか。
動的な数字の集まりである音、という捉え方もできるが、
もっと深いものを感じるこの頃です。