交換不可能な価値の音

 私はこのブログを始めて4.5年になります。
 おそらくこの前後あたりからボリューム(アッテネータ)を使わないことが多くなりました。

 3年前には、全くと言ってよいほど通さなくなりました。
 フラットアンプのことです。
 一般のフラットアンプは利得を持たせて、色づけをしています。これが個性となって
 オーディオファンに受け入れられてきたのだと思います。

 一般に非常に評価の高いものは疑似空間をつくるのが上手いのだと思います。
 マークレビンソンのプリアンプなどはその最右翼だったと思います。
 最近ではモデル32Lがそうでしょう。

  私もこれを聴いた時には、好いアンプだなぁ、と感じたものです。
 パワーアンプよりもこのプリアンプを通したほうが、パワーが増したと錯覚させるくらいの
 ものでした。

  他にはFMアコースティクスビオラ、ボールダー、ダールジール等々あります。

  結構心動かされてきたものも幾つかあります。

  それらとの比較も何回かやりました。
  しかし、じっくり聴くと、オヤッと思うことが多くなってきました。

  もうここ2年ほどは、私の思考が停止しているほど、全くこれらのプリアンプの
  良さを理解できなくなりました。

  鮮度感が出ていない、ということに気がつきました。

   もう数年前にある評論家の方にこのアンプの鮮度感は一般のものでは太刀打ちできない
  と。もちろん一般の最高級のほうが良い面はあるが…、というコメントをもらったことが
  ありました。

   その時に、その鮮度という言葉は私には言葉としては理解できても、それほど実感のこもった
  ものと受け止めていなかったような気がしています。

   それが上記のような最高級のプリアンプと比較することで、その意味が実感として
  分かるようになってきました。

   はやり人間というのは絶対観というものはない、とは言わないけれど相対的なものだと
  いうことを実感しています。

   私は哲学的には、絶対的相対主義にあると言えます。

  そぎ落としてそぎ落として、ということを徹底的にやってきたと言えます。ソリッドステート
 アンプのように複雑な回路(あれだけの抵抗を通って空間表現をするのは非常に難しいことも
 理解できるようになってきました。)では無理ではないとは思いますが、コスト、制作効率のことを考えると一般的には、500万円(販売価格)でも作れないことも分かってきました。

  そぎ落とし、徹底的にカミソリのように音を尖がらすのです。
  そうすると私が常に言っているように、音の芯が太くないと、聴いてられないのです。
  それに人間の耳ではなく、肉体で受け止めて心地よくするには、帯域をできる限り伸ばすこと
 だと思うのです。
  そうするとアナログになるし、ボリュームも元々必要悪ですので、取るしかない、という
  選択になったのです。

  何もかもストイックに突き詰めるしかないようになっていったのです。
  カートリッジもVan den Hulのコリブリになるし、ケーブルも色々と試しましたが、音のエッジが
 丸くならないのは今のところヨルマプライムということになったのです。
  インシュレーターもオーディオ・リプラスの50x20mmの透明タイプが増えています。

  力のあるケーブルは他にも色々とあります。以前大蛇のごとく太いケーブルを這わせて比較視聴も
  しました。このブログにも載せています。

  はやり、その時の選定基準は鮮度になってきていることに気がつきました。
  もちろん音の太さが出るかも大事ですが。
   私の選んだものが、全て他の方々が良いものとは言えません。私の基準は簡単で2011年時点
  でレコードに入っている情報(魂が大事)が出来る限り引き出せるか、ということです。

   ですからノスタルジックに鳴らす方には合わない選定だと思います。
  ボリュームがないことも理解できないと思います。

   この世界に普遍的なものはなくて、主観的ものでしょうが、私としては
 西田哲学の「物となって見、物となって行う」の実践をしているのだと思っています。

  つまり西洋合理主義、市場至上主義、資本主義に対する融合でもあるし、反発でもあります。
  乗り越える気概をもった反発なのかもしれません。

  それが主題への主張でもあります。一般化できないという矛盾でもあります。