本物と偽物の「中間領域」としてのオーディオ

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 「オーディオは偽物である。」それは本ものの奏者や歌手がライブとしてそこで演奏、歌っていないという意味でです。
 しかし、偽物といってしまうほど軽いものではなく、少し大げさに言えば人生をかけていると
 言おうか、人生と共に歩んでいるのです。

 しかしながら、本物の生演奏ではない。つまり中間領域であり、山折哲雄が『物語の始原へ 折口信夫の方法』で「もどき」の項目で述べています。

     本物と偽物との中間領域にこそ、実は自在な観念が飛翔しはるかな想像力の
     世界が広がっているのではないであるうか。

 さらに続けて

     「もどき」は「牴牾」もしくは「擬き」などと書く。前者の牴牾についていえば、
     「牴」は触ることを意味し、それに対して「牾」は逆うことを意味する。とする
      ならば「牴牾」とは要するに、何らかの対象に接近し接触しつつ、しかもその対象
      に逆う行動をさいていることになる。…

 この文章は私にはとてもしっくりくるものです。
 奏者の熱のこもった演奏に対して、その時代にタイムスリップしてその場に降りたち触れるような対話
 をしたいのです。
 それが「自在な観念が飛翔しはるかなる想像力」となって私と対話するのです。

  この感覚はいつも言ってますが、アナログでしか味わえないのです。
  しかもそのアナログもなかなか味わうことができません。
  まずは幾ら良いプリアンプであってもそのフラットアンプ、ボリュームを
  通すとそれは逃げていきます。
  ステレオフォニックや力感が増すというようなことがよく言われますが、
  それは疑似的なことで鮮度は間違いなく落ちます。というか触れる感覚は
  無くなります。
  これは恐ろしいくらいに。しかし一般には良い音です。
  音はそれほど変わりません。透明な空気感です。よくプリアンプを通すとそれが増すと
  いう表現をされますが、私はそれを感じたことはありません。

   先日の宮崎県のSさん訪問も、それを体感して欲しかったのです。
   ダールジールやその前はゴールドムンドをお持ちでしたが、よい音はすると思いますが、
   「自在な観念が飛翔しはるかなる想像力」をもたらす、かつ「牴牾」の場は
   つくれませんでした。
   これは予想よりも悪かったのです。ここまで悪いとは、というショックでもありました。
   Sさんは一番ショックだったと思います。
   その後もトライなさっているようですが、一般の市販品はそこまで追い込めない
   のだと思います。
   我々のはF1仕様ですので、ボリュームを通さないとか、空中配線だけの設計や
   抵抗やコンデンサーも数百万円クラスのアンプの最低でも数十倍のコストがかけられる
   からです。(設計のノーハウが一番大きいと思いますが…)

    最近また書き始められたのは、第2のスペンドールBCⅡのシステムが、その状態に近づいて
   きたからです。
    もっぱらダイヤトーンの2S-3003の第一システムしか聴けない状況から脱せたからなのです。

   何か一つの壁を取るには、何かのきっかけを自ずからの行動を通して対話することで、
   何か創発されることを改めて感じました。
   それが今回は、ノードストのバルハラという電源ケーブルだったのです。
   日々良くなってきています。(使うところを選ぶケーブルですね。)