最澄と空海にゆかりのある神社

仏教が伝来し、今も日本には欠かすことのできないのがお寺です。
その基礎をつくり日本中に広げたのに絶大なる力を発揮したのが最澄空海です。

仏教は538年に儒教とともに入ってきました。日本書紀には552年とありますが、いずれにしても6世紀中ごろに正式に輸入されたようです。もちろんその前から少しずつ入ってきていたのでしょうが…。

それから200数十年ものあいだ、元々の神々の国であった神道の自然崇拝の宗教観に人間について考える宗教が入ってきました。
この関係性はギリシャ哲学と全く同じ道筋をたどってきています。ソクラテス以前の自然哲学を否定し、
人間中心の哲学観に変えていったのと同じということです。

西洋は、宗教は多神教から一神教へ、つまり超越神へ移行していきます。哲学もプラトンによって時期を同じくしてイデアという超越的な「存在」を問うことを始めます。

一方東洋は、実在を求めずに現象界にのみ求めます。(インド哲学は除く)
形而上学ではなく、形而下の中に真の実在があるということを探求していくのです。
仏教はそういう意味では、宗教ではなく哲学と言ってもよいかもしれません。

それを哲学として確立したのが西田幾多郎なのだと思います。

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滋賀県大津市坂本にある日吉神社の社(やしろ)です。少し変だと感じませんか?
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日吉神社の東本宮です。19万坪という広大な敷地で驚いてしまいました。それだけ力があったということでしょう。]
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丹生都比売(にうつひめ)神社です。高野山の近くの天野というところにあります。今でも道はせまくワインディングロードを登っていくと、頂上付近に驚くくらいの田園風景が広がっているのです。そんな中に神社があります。行く価値はあると思います。世界遺産にも登録させています。
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丹生都比売神社というくらいで、丹生が以前はたくさん取れたところです。今も丹生神社は200社近くあるそうですが、半分は和歌山県に集中しているそうです。その丹生(硫化水銀、朱色の原料)が取れたからその資源を換金でき、高野山を開山できたということです。

さて最澄空海ですが、二人とも中国に留学したスーパーエリートです。悠久の歴史の中で、
中国は文化・経済において殆どの時代で今のアメリカのような存在でした。
(軍事力はあまり無かったと思いますが…)
そのトップの国に知力のある人間、それは僧侶が一番だったと思いますが、その中に2人は選ばれた
のです。
最澄桓武天皇の庇護を受けて、空海はあまり宮廷の庇護は受けなかったような論調がありますが、
そんな状態で中国は渡れません。
はやり空海も庇護を受けていたんだと思います。
それでなくては、京の玄関口の東の地に東寺が立てられるわけがありません。
事実嵯峨天皇の庇護を受けています。

そのバックがあってこそ比叡山高野山が開かれたのだと思います。

その山を開くにあたり日吉神社と丹生都比売(にうつひめ)神社との話し合いが持たれたのでしょう。
それは聖徳太子の「和の精神」でです。何回も何回も相談して許しを得ていったのだと思います。
さすがに2人は、凡人と違い神社、そのバックにある人々を説得するだけのものを持っていたんだと
思います。
日吉神社などは、それがきっかけとなり、さらなる本社としての日吉神社の存在を日本中に広げて
いってますので、今でいうwin-winのところがあったのだと思います。
しかし、プライドとして神々の「存在」は「仏」よりも上ということを常に持っていたのだと
思います。
丹生都比売神社はそこまでの強かさをもっていたかどうかは定かではありませんが、
空海の大天才にはかなわなかったように思うのです。空海は完ぺきすぎたのかもしれません。
それゆえに天台よりもその後の発展において、差異が出たと言えるかもしれません。

いずれにしてもこの2人にとって日吉神社と丹生都比売神社との関わりなくして今の天台、真言
確立は無かったと思います。
そんなことを感じさせてくれた2つの神社でした。