ジェントリフィケーションとボヘミアンなニューヨーク

 ジェントリフィケーションという言葉
  と
 ボヘミアンという言葉
 
 言葉の響きとしてどちらが我々の心に響くだろうか。
 一般的にはジェントリフィケーションなのかもしれない。
 都市に当てはめてみると、その言葉にぴったりはまるのがニューヨークだろう。
 アメリカの金融政策とこの言葉とがしっくりと融合し、ニューヨークが綺麗に美麗化していると言う。
 土地の地上げによって近代的なビルが全ての地区で立ち並んでいるという。もちろんニューヨークは
 エンパイヤーステートビルに代表される摩天楼の華やぐ街として世界のあこがれであった、いや今も
 そうなのかもしれない。
 ブルックリン地区でも土地の価格が驚くほど上がり、はやり美麗化しているという。
 何が悪いのか。
 
 悪くはない。元のニューヨーク市長のジュリアーノ氏によってニューヨークは生まれ変わったと
 言われる。 地下鉄の驚くほど乗りやすくなった。私もそれは実感したものだ。
 
 そこでボヘミアンという言葉。
 自由奔放な生活を追究する人々のことを言うが、元々は文字通り、その地域から波及した言葉のようだ。
 それが主義的なものとなり、アーティストたちの、世間とはある一定の距離をおいた伝統や習慣にこだわらない
 グループや其々の生き方をする若者がこのニューヨークに集まってきた。
 アメリカンドリームを夢見る者の集まりでもある。そこにはあるエネルギーが集積していた。
 文化もあった。
 治安的には一種独特の悪さも感じるところだったと思う。
 
  それが今のニューヨークには消えつつあるのではないだろうか、と思うのである。
 面白くない。
  集まる人がジェントル化している。
 
 人間は美化する方向だけでは、どうも息苦しいのではないだろうか。
 マルキシズムも理念は素晴らしいが、人間の本能にある荒ぶる欲望を抑制し、理性のみで生きていく
 というあまりに優等生のismであったため、世界には広まらなかったのではないだろうか。
  もちろん今も社会主義国家は存在するが、そこには腐敗構造が見え隠れする。この構造もはやり欲望
 を抑制することが出来なかった証でもある。
 
  真善美ともに完全なことにこしたことはない。しかし、人間というものはそんなに合理的に出来ていない。
 非合理なところがある。だから面白いともいえる。厳然と宗教が2000年も続いていることがその証だ。
 人間も生まれた時から、環境や地域、能力差を持って生まれてくる。I was born.であって自分の意志ではない。 またハイデガーの「被投性」という、この世に投げ出されたのである。 全く同じ条件で、ヨーイドンで努力して育っていくのではないのである。
 そんな中でも関係性を心身ともに使い大きくなっていく。
 
  そんな結果として人種を含めるつぼであり、エネルギーの塊としてのニューヨークであって欲しい
  と思うのである。
  そんな都市にあこがれ、我々日本人も現地に赴き空気を吸って身体全体で受容したい場であって欲しい
 と思うのである。
  ジェントリフィケーションだけでは面白くない。ボヘミア的なものとの融合、その融合が頂点のごとく集中する
 ところに何か新たなるものが生まれる。
  そのコンセプトが、エネルギーとなり、世界に文明として伝わっていく都市であって欲しいと願っている。
  そろそろその空気をまた吸いに行きたくなってきた。