クラシックに限らず世界に関たる超一流のアーティストが次々と来日します。
先日のポール・マッカートニーしかりです。
世界一のアーティストが集まるセンターが東京と言われるだけのことはあります。
このようなコンサートで、特に私はオーディオを趣味としていますので、聴き方がどのようなものだろうか、と
考えてみました。
私は本も非常に多くの本を読みます。
その本に照らしてみたのです。
私はそんなに小説は読みません。そんなに、ですのでたまに読みます。
『永遠のゼロ』は久しぶりに涙して読みました。海外に行っていた時に帰国の飛行機で読みました。
ドバイから成田までの間、読んではトイレに行ってティッシュで鼻をかんでました。
小説というのは、その主人公に自分がなったかのごとく読み進めているのが分かります。
一方、よく読む哲学や思想書は、そこに主人公はいません。
筆者はいますが、主人公は唯一神の神のごとく超越なる声であったり、主観をこえた一般としての意思であったり、筆者の主張としての意思であったりします。
そんな得体のしれないものにいちいち感情移入してられません。(笑)
それで、私というものをその文脈やセンテンスの横に常において、対象化しながら読み進めているという
感覚でしょうか。
この哲学・思想書的な読み方が私のシンフォニーを聴きに行った時のスタンスではないか、と言うことをふと脳裏に浮かびましたので、記しておきたいと思ったのです。
つまり、目の前で演奏して聴いているのですが、脳もそれに反応はしていて心地よいという感覚があるのですが、小説のように指揮者や奏者に成りきる、というのではなく、我が家のオーディオから出てくる楽音とだぶらせながら、対話させながら聴いている感覚なのです。
正しく哲学的な読書法とよく似ていることに気がついたのです。
哲学書はこのような読み方をしないと、字面だけおっていて何も残りません。
ある程度の哲学的な語彙や西洋哲学や東洋の思想のフレームワークが分かっていないと読めません。
シンフォニーを聴きに行っても、それがベルリンフィルという超一流であろうと、ある程度の予備知識や予備脳??
を作っておかないと、その良さが分からないと思うのです。
そんな事前の知識等は必要がなく、良いものは良い、という意見もありますでしょうが、その良さのより深さを
感じるにははやり必要なことですし、聴いてはまた知識を加えて、又聴くという繰り返しがよりその人を
深く感じさせ、また言葉にした時も複雑な言葉となって著せるのではないか、と思うのです。
こんな聴き方しか出来ないのは、不幸だな、と仰る方の声も聴こえそうですが、私の聴き方を
デカルト的な目で俯瞰してみた次第です。