マヤ文明 世界遺産 チチェン・イツァ

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 なぞに包まれたマヤ文明です。

 ここは、マヤ文明の中心とは言い難いところですが、カンクンから車で3時間弱で行ける

 わりあい訪れやすいところです。

 中心はティカルでしょうが、グァテマラは治安の問題で入国がしにくく、行きたい場所ではあったが

 メキシコの中で一番有名なところで落ち着いた。

 マヤについては、後ほど詳しく書きたいと思っている。

 色々な説があることも分かってきた。

 とりあえず写真をアップします。

   一般的に観光として言われていることは、それ程触れないことにします。


 緯度的には熱帯に属するが、降雨の関係で、雨季と乾季に分かれるために、その気候変動がマヤの人々に宗教観を植え付けたようです。本当に地勢的な要因は我々の心のあり方を決めるきわめて重要なポイントになっていることが分かります。
 和辻哲郎の『風土』をまた引っ張り出してみたくなりました。
 日本人の自然信仰、崇拝しかりですね。

 ここは、メキシコ、ユカタン半島カリブ海に面した世界的なリゾート地「カンクン」からそれ程遠くないところに位置した古代都市国家でした。
我々は熱帯のジャングルは巨木がそびえて、鬱蒼と茂ったイメージが頭にありますが、そのイメージとは
ちょっと違います。
その原因は、その地面にありそうです。
あまり土がなく、ちょっと掘っただけで石が覗きます。
また、その石はカルストなので、少ない土に、浸透する石で、水が貯まらない根本的な構造問題があったようです。
そのような地理的悪条件のところに何万人も住む都市国家が何十も点在して出来ていたようです。
 このような都市国家が、ある距離をおいて点在していて、一番栄えたとされるティカルの皇帝をもって
してもその全体を統一するには至らなかったようです。

ある説では、戦争といってもあるルールの中でしていたので、勝者であっても敗者の国家を滅ぼすことは
しなかったという。
このようなゆるやかな関係性の上になりたっていて、中央集権化せずにやってきたというのです。
また戦争は一般住人は巻き込んでいなかったと言われています。それだけ易しいものだったと。

私はこの説には、あまり賛同できません。
この地は、とにかく食料を確保するのが一番の問題だったようです。
今も、アフリカではその問題が大きなテーマで解決していません。
ロシアでさえそうです。ロシアは余っているところと足りないところの差が埋められていない
というのです。それは、いわゆるロジスティクス体制不備ということです。
この点に目をつけて、統一したのが、インカ帝国の9代皇帝なのです。

 私はこの点に注目したいと思っています。
この国は、

色々な文献でも明らかなように、
マヤ文明の特徴としては、

青銅器や鉄器などの金属器をもたなかったこと。
車輪をつかった運搬機の発明がされなかったこと。
牛や馬などの家畜を飼育しなかったこと
とうもろこしなどの主食を栽培するのに、焼畑(ミルパ)農法が中心であったこと
などが挙げられています。

このこととも大いに関係するのですが、戦争はつまり木槍、石刀のようなものを武器として使い、
馬がないことなどから、素足での原始的な戦いだったのではないでしょうか。
それに戦争は、一日や二日で勝負がつくものではなく、100年戦争というぐらいの
ものもあるくらいだから、かなり長期戦になるのが普通です。

しかし、その長期戦のためには、食料事情やその兵站体制(ロジスティクス)が必要不可欠になります。

 想像ですが、ここのマヤの都市国家間の戦いは、人間の背中に背負って武器、食料等を運んでいたことになります。
これでは、兵站担当という専門職があったとは考えにくいと思います。
つまり、そのような専門職は農民が借り出されることが多いが、それがなかったということです。
結局、武器、食料は自分の分と、その他少しの人の分しか運べなかったということです。

 こんな体制の中での戦いかたをするには、短期戦で、軍人のみしか参加できないのが
当然で、ごく少数同士の戦いだったように思うのです。
 そこから類推すると、このような戦いでは、距離の離れた都市国家を戦争によって滅ぼすことは不可能だったのではないでしょうか。

 仲が良くて、同じ文明の中にある仲間という認識にあるのではなく、
ある特殊な均衡点のうえに成り立っていたと考えられます。
 それが、たまたま気象状況が良い状態(農耕にとって)が長続きすると、収穫が増え、それに伴い人口増になります。各都市がその状況になって繁栄し続けます。
 その後、全く逆の旱魃がおそい飢饉になります。
そうすると、
 焼畑のために森林伐採を行うために新たな土地を求めて動くことになります。
森林伐採は、現代では地球環境問題に悪影響を及ぼすというのがパラダイムになっていますが、
当時もやはり、その行為がよけい、旱魃を起こすという悪循環になったと考えられます。
 それで、さらに好立地なところを求めるようになり、他国と鉢合わせになり、戦争という
流れもあったと思われます。
 また、他の国家が繁栄していると思う(となりの芝生は青い的な発想)から、略奪目的で、他の国家を襲うようになり、繁栄、拡大のための戦争ではなく、「食うための戦争」となって血みどろの戦いが起こっていったのではないでしょうか。
 それでだんだん、一般住民も巻き込んだ決死の戦いが各地で繰り広げられて、飢饉と相まって滅亡したのではないでしょうか。
 今風に言えば、バブルで潤った後の、つまり宴の後の、崩壊です。
ですから、スペインが入植してきたから、滅んだのとは違うんだと思います。


まさに、トマス・マルサス1798年に『人口の原理関する一論』を出していますが、
このマヤ文明の発展、崩壊のプロセスはこの理論がかなり当てはまるように思います。

 http://www2u.biglobe.ne.jp/~itou/Malthus.htm
 私がその本をレビューするより、ここをクリックして見て下さい、よくまとまっています。


アステカ、インカとは違った滅亡の仕方をしているので、謎が多いんだと思います。

もちろん、マヤ文字があり、今では80パーセントまで解読できているようですが、その文献の数が
余りにも少ないようです。
これは文献をぶち壊したスペイン人の影響が出ているように思います。

2枚目:「ククルカンの降臨」で一躍有名になったピラミッド 春分の日にはその降臨を一目見ようと
    世界中から5万人訪れるそうです。
3枚目: 直径15センチのゴム毬をつかった競技を行っていたようです。サッカーのようなものでしょう
    が、足先ではなく、ひざやひじを使っていたそうです。この広い競業で、左右の壁の真ん中辺りの丸い穴を通したほうが勝ちらしいのですが、ここはあまりに広くて使っていなかったというのが、通説のようです。
4枚目:セノーテといわれる泉です。マヤ全体で5000以上見つかっているようです。
   このセノーテはその当時から濁っていて飲み水として使えなかったようです。
   いけにえに女性に財宝をまとわせて、投げ入れたようです。その他子供もだそうです。
5枚目:ピラミッドの作りも春分の日に日陰の角度まで合わせて考えたように天文学は相当進んでいた
   ようです。その天文の中心である天文台です。
6枚目:分かりにくいのですが、皇帝が敵のおそらく皇帝の首を持っているところがようく見れば
   分かります。
7枚目:マヤ文字をご覧いただけます。
8枚目:生贄した人の心臓をとし出して、その心臓を置いた場所だそうです。

このように修復はされてはいますが、その当時のままに残っているのは、スペイン人にも
気づかれないような低木だが、密林の中にあって殆どが木や蔓で覆われていて、
発見できなかったからだと言われています。

 またこの地はマヤ人が混血せずになかり残っているところと言われています。
 背が低く、丸顔でやや小太りの様相だそうで、そのような方々をよく車窓から見かけました。