私は、クラシック音楽をよく聴いている。
果たして、クラシックが好きだからだろうか。
システムとしてある極みに達したと認識した時によくある行動パターンだ。
それは、将来からみれば、まだまだだったと言う認識であろうが、
現時点ではなかなかのところまできていると感じている。
そんな時は、クラシックが多くなる。
おそらく音楽を楽しんでいるのであろうが、私の持論の「音と音のあいだ」が多分に感じられる
時なのだと自己分析している。
音そのものの太さと言う点では、まずまずだし、その太さの中に演奏者や肉声の魂が
感じられるのである。
その感じが出るには、エッジの鋭さ、言い換えれば音の立ち上がりの鋭敏さ、滲みのなさ、
それに高域の素直さが必要になる。
ある人に聴いてもらうと、音が細いと言う人がいる。
音の太さの意味を説明して再度聴いてもらうと、その太さの認識が理解される。
高域に華やかさがあったり、低域のドンという音が出ると、それが太いと思っている方が
多い。
それは、太さとは関係がないというか、むしろ音が細く、ピーキーに鳴っているだけ、
なのだということを理解してもらう。
その認識を理解し、それを継続していくと、元の音で聴けなくなるというのも
理解してもらえる。
結局、オーディオは耳の良し悪しではなく、認識の在る無し、脳で聴くということ
なのかもしれない。
悲しいかな、そのような聴き方をしている私がそこにある。