ディレッタントな音

私はディレッタントという言葉をとても好んでいます。この概念は、プロフェッショナルな方々には、どうも否定的に捉えがちです。特に芸術家には悪評のようです。一つのことに本質を求め探求する方々からすると、横断的、学際的であり、限定された分野で大家ではないからです。それを志向するものは、大家になり得ないことを意味するから、否定的に見られるのだと思います。
しかしディレッタントは、ヤーコプ・ブルクハルトが、『世界史的考察』で言っているように、さまざまな事柄を愛好することであると。そこから逆説的に述べていて、さまざまなな領分において自分の愛好するものに真に思いを潜めることも可能となるかもしれないと。
他の領域に知的好奇心をもつことは、例えば私のように、オーディオに打ち込むものにとってはより有益だと思うのです。
つまり、私は本業のためにも、他の領域を学際的ながらも真剣に学ぶことは、本業の深掘りにも、その蛸壺の領域拡大につながり、面白みが生まれるのだと思うのです。それが周りには魅力に感じさせるようです。
最近では、スティーブ・ジョブズが、ヒンドゥーや禅に打ち込んだが故に、あのような、主と客が分離した西洋的な二元論的思考ではなく、もはや主もなく、客もない、無なる概念を体得したが故に、あのような製品・サービスのコンセプトが生まれたと言われています。
ですから、あえてディレッタントという言葉を大切にして行きたいと思うのです。
また仏教用語を使ってしまいました(笑)が、我々日本人は外来の仏教ではありますが、宗教という枠を遥かに超えて染みついていることをもはや忘れてしまっているだけです。
メーカーにいて「開発」という言葉を使っていませんか。サービス産業然りです。これも仏教用語です。もうすっかり根付いているのです。
本居宣長先生が存命でしたら、だから「漢心」にしてやられているのだ、とご叱責されそうでありますが。しかしここまでくるともはや「やまとごころ」だと思うのです。
ディレッタントな私をお許しあれ、本居宣長先生。