文明観

 一つの発達した文化、そこには科学的なイノベーションが起こっている。それらが複数点在したり、組み合わさると、文明になるのであろう。

 ただ、それだけでは長続きせず衰退への道を歩む。これは昔も今も同様の普遍的なものだろう。文明になるとその地域の外との求心力や遠心力が働いてくる。
 川勝平太氏の言う「あこがれる文化」がそこにあるかどうかである。

 その交易、交流を通じて異文化に接し、同化、異化作用が醸成されていく。そのような「あらたな融合」がサステイナビリティには不可欠なことである。
 つまり、「知」と「知」のぶつかり合いを通じて新たなコンセプトを生み出す知の発見が常に必要となるのである。

 武者小路公秀氏は『グローバル化パラドックス』(宮永国子編、世界思想社、2007)の中で、「和」の再解釈の必要性に言及し、聖徳太子の「和をもって貴しとす」の本来の文脈の中で、もう一度その和の解釈をすべきであると述べている。

 つまり、排他的な均質主義ではなく(今、そのような解釈が一般的と筆者はみているし、私も同感である)、多様な文化の同化という、多元主義に戻して考えるべきと主張している。
 「みんなで仲良く」という日本の中だけで考えるのではなく、色々なグローバルな「コンセプト」を持ち込み、激しく議論し合い、その中から良いものだけを選別して同化さすという、中谷巌氏のいう本来の「日本化プロセス」をふむ必要があるのである。

 それを阻んでいるのが、江戸時代の鎖国政策による、平和な時代環境が影響しているという、江戸時代を否定的に捉えたみかたもある。

 インカ帝国もこのような多元的な同化の継続的プロセスがあれば、このような一気なまでの絶滅を防げたのではないだろうか。自国のアイデンティティの基本となる宗教、言語(文字を含む)、法律をしっかりと確立、熟成させるとともに、足りない(認識する必要がある)科学、技術、精神思想を、常に情報(fact)として受け入れ、その文明流に焼き直し(同化、解釈)していくことが、継続に必要なことであると感じている。

  しかしながら、あまりのパラダイム転換が起こると、心身ともについていけない。それに対応しようとする努力だけでは無理なのである。

 全く違った「知」を受け入れる柔軟さが重要で不可欠なことなんだと思う。
そのような経験を多くつめばつむほど、対応能力がつき、「自分」というものがみえてくる。それが「アイデンティティ」ということでもある。

 つまるところ、外部との対話、コミュニケーションがあるかどうかという能力の問題になってくる。
 今風に言うと、理論と実践による新たなコンセプトを常にPDCAをまわし生み出せるかどうかに
かかっているのである。