チェコのプラハに行くご縁でカフカを初めて読みました。

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『変身』です。読書家ではあるのですが、小説はあまり読まなかったのですが、こんな時にこそ
その人から滲みでる風土観や歴史観、死生観をしりたくて、安直な考えですがカフカを読みました。

今からちょうど100年前の1912年に書かれた小説です。西田幾多郎の『善の研究』が1911年だから同じ時代です。西洋の哲学は「驚き」から始まる、と言うがこの同年代の2つを並べてみると、「悲哀」そのもののように感じます。
 人間いつなんどきどうなるか分からない運命にあり、かつそれを受け入れざるを得ないのが人生ということを示唆した強烈なメッセージ性を持った作品でした。違いがあるとすれば、カフカユダヤ人であり、一神教と共に歩んでおり、そこから類推すると(ユダヤ教は生きている現実を直視するが…)、その起こっている現実の世界、つまり現象界は虚像であるという結論にあり真実は実在という二元論に結びつく。超越たる実在の世界が真と言う、言い換えれば現象の世界がニヒリズムと捉えることが出来ます。
 一方西田は二元論を否定し、現象即実在という西洋の思想を意識しながら矛盾を飲み込んだコンセプトで世界と対峙しました。
 虚像であってほしいその現実を受け止め、受け入れなければならないものを受け入れる。それが無常というものだということです。
 その今をどのように受け入れるか、「永遠の今」「絶対現在」というある意味否定したいことを肯定していく。
一即多多即一なのです。『変身』の昆虫になったり、今問題となっている「いじめによる自殺」を未来に先延ばしするのではなく「今」として受け入れて「今」を生きることに全力でかつ創造しなさい、という「純粋経験」を重ねられるように、一つづつ、という意味に解しました。