悲しいかな、誰も書きこんでくれません。(苦笑)
音づくりに洋の東西の違いはあるのでしょうか?
ない、と言えば普遍なる音づくりがあるということだろう。
確かに、東西の違いはない、ともいえます。
同じ理念や追求をすれば良いということになります。
日本人(東洋人)は音楽や芸術だけではなく、一般に包括的に物事を捉える傾向にあるそうです。
一方の西洋人は、分析志向にあり、対象物の音として聞いているようです。
つまり日本人は、音を周りの音や肉声との関係性の中で、「場」の中の空間の中の一つとして
聴いていると言えるようです。仏教の根本思想である縁起です。
西洋人は、あるモノに焦点を合わせて、一つのターゲットとして音を捉えているようです。
ここら辺りは、言葉で表すことは難しいものです。
おそらく空間の捉え方が違うように思います。アメリカの社会心理学者のリチャード・ニスベットが
『木を見る西洋人 森を見る東洋人思考の違いはいかにして生まれるか』で音に対しては言及して
いませんが、包括と分析という東西の差異を述べています。
私はこれを読んで、西洋のオーディオ機器の音創りの思想が何となく、腑に落ちました。
腑に落ちる、という言い方自体が日本的ですが…。
西洋は音そのものの追求なんだと思うのです。
これは日本のオーディオ機器メーカーも追随しているように感じます。
まだ追いつけ・追い越せという日本の高度経済成長時期に標語のごとく西洋の一流メーカーを追っかけている日本のメーカーの姿が現代にも感じるのです。
それに比べて、師匠と私は、そうではなくて、包括的に捉えながら、細部にこだわっています。
そんなの当たり前、と言われそうです。
その細部とは、「音と音のあいだ」という表現の"あいだ"の暗さです。
ダイアローグ・イン・ザ・ダークという真っ暗闇での体験を行うところがありますが、
目が慣れない真っ暗な中での、研ぎ澄まされた羽毛が落ちる音を感じるがごとく、その空間
表現の音をつくりたいと思っているのです。
別な表現をするのであれば、自然の人工物のないところでの鳥や動物の鳴き声、そよ風の
の流れが分かるか、という感覚です。その音は自然の木々や岩や山々からの反響を感じられるか
どうかです。普通はこの音が死にます。ですから人は大音量を求めてボリュームを回したがります。
それを人工物の中で、スタジオの奥行き、天井の高さ、録音機材の古さ・新しさまで感じとれたら、と思うのです。
非常に難しい音づくりです。
一般の数百万円のプリアンプやパワーアンプでもそれは、とってもハードルの高い要求です。
そもそも前述の西洋にそのような音創りの概念があるか、という人間のアプリオリや生まれてか
らの慣習や環境に大きく左右される人間そもそもの問題にも関わってきます。
私たちは暗闇とか空間の自ずから然らしめようとしているところです。
こんな表現ができつつあるのも、2年前ではこの感覚の表現の機微は書けなかったのです。
体験していなかったからです。
それが少々見え始めています。
またこれからの1年が楽しみになってきました。