音伝えのハイコンテクストとローコンテクスト

 我々日本人は、アメリカのような移民社会ではないので、ある共通の価値観を共有しているかのように感じながら生活している。
 もう一度アメリカを例に出すが、例えばニューヨークの高層ビルのエレベーターに一人乗ったとする。すると次の階で誰かアメリカ人?が乘ってきた。
 その時は、ほぼ間違いなく、「ハロー」と挨拶しあう。よくある光景である。
一方日本において、あるビルのエレベーターで同様な情景に出くわした場合はどうだろうか?
まずは挨拶はしない。
 これには、東京大学山岸俊男さんが、「アメリカは信頼社会であり、日本はそうではなく、安全社会である。」と言っている。つまりアメリカは多民族国家なので、「袖触れ合うも多生の縁」ではないので、言葉を交わすことで、その瞬間に信頼関係を作っているという。そこから信頼社会と命名しているのだ。
一方の日本人は移民社会(古代は多分に移民社会だった。)ではないので、(これからは移民社会にならざるを得ないと言われている。TPPはその布石か?)、そのような信頼関係を築かなくても、安心な社会、という意味から安心社会という。
 このような安心社会(今は物騒な犯罪は増えたように思う)では、一般に多くを語らなくても通じ合うと一般的に
認識されている。いわゆる以心伝心の「分かるよな!」という感覚である。
これが「ハイコンテクスト」と言われるものだ。
 
しかしそれは本当だろうか?
この「俺の言っていることの意味なんか説明しないくてもわかるだろう!」というハイコンテクストな世界は終焉していると認識し直したほうがよいのではないだろうか。
 
世代間ギャップはもちろん大きい。ただ「今の若い者は・・・・」という言い草は、ギリシャ時代から言われていることなので(笑)、2500年前から歴史が証明している。
そんな世代の問題でもなく、同じ会社内でも縦割りな組織などと情報の風通しが悪い社風という言い方もよくされる。
つまりローコンテクストな社会なんだということを再認識したほうがよさそうである。
私が趣味としているこのオーディオも、私の伝えたいことは、私の伝え方の下手さとボキャブラリーの貧困に
より、皆様に伝わっていないと思う。
 
「音と音の『あいだ』」をいかに出せるか、
 
と言ってもこれを読んでくださっている方々の鳴らし方によって、そのイメージが百人百様なんだと思うので、定義化なかなか出来ないのだろうと思う。
このような音という極めてあいまいな、形として残らないものはよりローコンテクストになりがちで、しかもその人の
主観が大いに関係するものであるので尚更である。
音楽を聴いて「心地よさ」を求めるのは同じであっても、心地よさの意味合いが全く違う場合が多い。
「多様な価値観」と言ってしまえば、それまでだが、伝え方とは厄介なものだと思う。
また押し付けるものでもない。
しかし、音にも普遍というものがあると思う。その普遍なるものへの追及は、無個性か?というと全く逆だと思っている。ただ個性で押しまくるというアプローチではない。
私の方法は、情報量多さ、帯域の広さ、バランスの良さなど極めてオーソドックスな追及(これとて私が勝手にオーソドックスと思っているだけか?)だと思う。
それに歪にはとても煩いと思う。
それは一般的に聴こえる「歪んでいるな!」というものではなく、音と音が重なって
本来そこにある倍音という音空間が消えてしまっている状態を「歪」と認識している。
それがCDでは当然のもの、と思っていた。しかしここに来て、全てがクリアされたわけではないが、とても楽しく聴けるレベルまで、我が家の装置で達成しつつある状況だ。
「話せばわかる・・・問答無用」ではなく、「聴けばわかる・・・問答無用」なのかもしれない。
しかし、ローコンテクストながらも、細々とであるが、このブログも続けていきたいと思う。