フランシス・フクヤマ『政治の起源』

久しぶりにフランシス・フクヤマの書を読んだ。相変わらずの大作だ。ベルリンの壁が崩壊する前に書いた論文が本になり、世界中から注目された『歴史の終わり』以来の会心作だろう。今で言うピケティ並みに注目された作品だった。
この『政治の起源』も上下本で、気合いを入れて読んだが、一週間を要する中身の濃いものだった。
ここでは、中身に突っ込んだことは書きません。
一つ、

イメージ 1


下巻の250ページに、「・・・説明となる要因として一匹の亀を選んだとしても、その亀はつねにその下にいる別の亀の背中に乗っているのである。自然状態や人間の生物学の記述から本書を始めた理由の一つは、それがあきらかな出発点、つまり、あとに続く亀が上に乗っている『土台となる亀』だからである。」を書き留めておきたい。
それは、関係があるかいささか不明瞭かもしれないが、表層なる録音の音の背後に感じる土台を意識させてくれるか、がとても大事に感じているからだ。
そんな録音は一般に刺激的な音はしない。つまり「ドンシャリ」な音作りはしていないので、一般受けはしない。録音現場やミキシングの時に、非情な思想を持ってしないと周りからバッシングを受けるだろう。
私よく言っている「普通の音」、一聴すると「素っ気ない」感覚がするからだ。かなりの装置で鳴らさないと、感じとれない。
では何を、誰を標準として「一匹の亀」の音作りをするかによるからだ。
今はこのブログもiPhoneで打っている。iPhoneで聴くことを標準とするか、かなり追い込んだオーディオ人を対象にするか。オーディオ人でも政治家と同じで極右から極左まである。(笑)
そんな差異がある中ではあるが、ベターやベストという感じではなく、GOODという「普通の音」作りをして欲しいと願う。
それには確固とした思想が必要になってくる。
「土台となる亀」を感じとれる音だ。
そうすることで、デバイスなり人の対応が変わってくる。
物が人を動かすということになるに違いない。